その会話が佳主馬の耳に入ってきたのは全くの偶然だった。
研究棟に向かう途中にある、簡易テラスは自動販売機とテーブルが並んでいてちょっとした休憩スペースになっている。
そこを通り抜ける時、ちょうどテラスで談笑していたメンバーの会話が耳に入ってきた。だた、それだけだった。
しかし、会話に中に出てきた人物名に、足早に通り抜けようとしていた佳主馬の足が止まる。
「小磯女史ってさ、ほんとギャップ激しいよな」
小磯女史、という言葉に佳主馬が連想するのは、ただ一人しかいない。
折しも、テラスがある場所は件の小磯女史が所属している研究室に向かう途中にある。
どうやら、現在そこに入るメンツは佳主馬の恋人であり、現在在学している大学の博士課程に籍を置いている小磯健二に他ならないだろう。
恋人にメロメロだという自覚のある佳主馬は、健二が在籍している研究室のゼミ生だろうと推測される学生の会話が気になり、自動販売機で飲み物を物色する振りをして聞き耳を立てることにした。
「ああ、数式解いてる時とかすごい凛々しいのにな。普段はなんてか、小動物みたいにおどおどわたわたしてるよな」
「そうそう! と言うか、最初女の人だと思わなかったんだよなー。名前からしてそうだし。松山さんと仲良くて最初すげー嫉妬したし」
「あー、お前松山さん狙いだもんなあ。つーか、うちのゼミのマドンナだし、競争率たけえぞ」
ゼミ生の会話は本当に他愛のないものらしい。
佳主馬的に気になった松山と言う人物も、話を聞く限りでは女性らしいので大きな問題ではない。
「まあ、ゼミ内の数少ない女同士で仲よくするのは良いと思うぜ。小磯女史のおかげで松山さんが他の女子が多いゼミに移らずいてくれるんだから」
「同感。あと、松山さんのおかげで小磯女史も安全だしな」
「ん? ……あー、あいつかぁ。ちょっとアレはなー、あからさま過ぎるって言うか目に余るって言うか」
なにやら不穏な雰囲気に、自販機を物色する振りをする佳主馬の動きが止まる。
安全なのは構わないが、ちょっと聞き捨てならない事態になってないかと不安になる。
「遠藤だっけ、幾何ゼミの院生。たしか小磯女史と同期だけど大学は外部だって言う」
「そうそう。なんでも、うちの理工学部合同イベントの時に小磯女史を見初めて、大学院試受けてまでこっちに来たらしいぜ」
「マジで? ちょっと、その執念は怖いわー。松山さんがすげー警戒してるし、あからさまに嫌ってるんだよな」
「だって、アイツすげー嫌な奴だよ。ちょっと自分が出来る人間だからって、周囲を馬鹿にしすぎ」
「あ、それ聞いた。小磯女史に向かって『君の頭脳は僕におとらない、素晴らしい人だよ』って口説いてたらしい。マジきもいんすけど」
口説いたと言う言葉に、佳主馬の堪忍袋は限界点が突破仕掛ける。
そこのゼミ生を捕まえて、詳しい話を聞きたい衝動にかられるが、流石にそれをするのは不審すぎるだろう。
何とか物色した缶ジュースを買って、近くのテーブルに休憩を装って腰をおろす。
「自分がイケメンだと思ってるみたいだけどさ、アレは普通だろ」
「まあ、俺らよりはイケてるだろうけどさ。流石にあの性格はいただけないわー」
「つうか、小磯女史には似合わないって。女史にはもっと性格のイイヤツじゃないと、絶対続かないだろ」
「あるある。女史って、ふわっとしてるけど芯が強いからさ、ちょっとやそっとの男じゃ吊り合わねえって」
「そう言えば松山さんが言ってたけど、小磯女史って彼氏持ちらしいぜ」
「マジで!? 初耳なんですけど!」
「え、どんな奴どんな奴?」
なんで皆そんなに興味津々になるんだろう。
そんなふうに思いながら、件の「小磯女史の彼氏」である佳主馬は、買ったばかりの缶ジュースを飲み下す。
「詳しくは聞いてないから判らないんだけどな。どうも、小磯女史ベタボレらしい。頬を染めて『凄くかっこいい人』とか言っちゃってるんだって」
「へー、あの女史が! なんか、想像つかねえ」
「数学と同じくらい愛してるみたいだぜ」
「マジで? 小磯女史、騙されてないか? 大丈夫なのかな」
外野から恋人が自分についてどう思ってるか語るのを聞くのは、妙に気恥ずかしくて嬉しいのだが、こっちの気も知らず喋るゼミ生に「誰が騙すんだ、人聞きの悪い」と説教したい気分にもなる。
騙すわけがないし、佳主馬が健二を騙せる訳がない。
「結構長い付き合いみたいだぜ。3〜4年くらい前からだと」
「あぁ、そりゃ相手もマジだ。うん、安心だ」
「でか、お前なにさまだよ。小磯女史の保護者見たいになってんぞ」
「いやー、だってさー。俺、入学したばかりで数学以外出来なくて、悩んでた頃に小磯女史にすごい助けてもらったんだよ。自分も苦労したからってアドバイスくれなかったら、俺中退してたかもしれないんだ。すっげー恩義感じてるから、女史にはいつか絶対恩返ししないと気が済まないんだよ」
滔々と語るゼミ生の一人に、佳主馬はちょっとだけ見覚えがあった。
一時期健二が、自分に似てるからと言って気にかけていた人物だ。
健二の優しさに、うっかりそいつが惚れてしまわないかと懸念してマークしていたこともあったが、どうやら尊敬は恋にはシフトしなかった模様だ。
かわりに、子の幸せを望む父親みたいな感じになっているのは、正直微妙なところだ。
「そういえばさ、情報工学のプログラム研究室の佐久間さんがいるじゃん」
「ああ、小磯女史の同期で親友だっけ」
「そうそう、佐久間さんは小磯女史の彼氏知ってるんだって」
「へえ、俺てっきり佐久間さんが女史の彼氏だと思ってた」
「まあ、仲良いしなー。それ二人の前で言ったら、すっげー嫌な顔されたぜ。二人して『ガチでありえない』ってハモってた」
確かに、佐久間と健二は周囲が付き合っているのかと疑いたくなるほど仲が良いと佳主馬も思う。
男女間に成立した友情だと本人たちは言うが、佳主馬自身最初はそれが信じきれずやきもきしたものだ。
今では、佐久間は健二の親友で父親的位置にいるのを理解しているので、ちょっと微妙な思いはするが嫉妬するほどではない。
「あ! おい、小磯女史と遠藤だ」
ゼミ生の一人の言葉に視線を向ければ、廊下の奥から歩いてくる健二と一人の男性が目に入る。
しきりに健二に話しかける、ゼミ生曰く遠藤と言う男に健二はちょっと困った顔で返答している。
「また、あれだろ」
「遠藤の勧誘か。うちのゼミに移動しないかーって」
「それか、今夜夕飯でも一緒に。じゃねえ」
「俺、ちょっと助けに行ってくる」
そんなゼミ生の言葉よりも先に、困った健二の顔を見た瞬間佳主馬が動く。
飲み干した缶をゴミ箱に捨てて、迷いのない足取りで健二達に近づく。
前方から近づいてくる人影に気づいた健二が、佳主馬を見つけて安堵に瞳を和ませるのに甘い微笑みを浮かべて。
「健二さん」
低く甘く響く声で佳主馬が愛しい相手の名を呼ぶ。
「佳主馬君。どうしたの、研究室に用事?」
タタタッと遠藤と言う男を置き去りにして駆け寄ってくる健二の頬は朱に染まっており、その表情はまさに恋する乙女と言わんばかりの嬉しそうな顔である。
対する、佳主馬も甘ったるい微笑みを浮かべている。
「今日の打ち合わせがキャンセルになったから、健二さんと一緒に帰ろうと思って。いつ頃終わりそう?」
物言いたげな遠藤とやらの視線をあっさり無視して、佳主馬は健二の持っている教材を受け取る。
話しかけるのに一生懸命で、女性の荷を持とうともしない男は最低だと佳主馬の心で遠藤と言う男のランクが決まった。
「ホント? 僕ももうすぐ終わるよ。この……って、今佳主馬君が持ってる教材を資料室に戻したらおわり」
パァッと表情を輝かせて答える健二に、良かったと返事して佳主馬が健二の荷物を全部受け取る。
「じゃあ、これを戻したらまっすぐ帰ろうか。待ってるから、鞄持ってきなよ」
「うん、すぐ戻ってくるね! じゃあ遠藤くん、僕はもう上がるからごめんね」
「え……いや、ちょ」
いい加減辟易していたのか、健二にしては少々ぞんざいに遠藤に挨拶をして、きた道を駆け戻っていく。
それを見送って、佳主馬は今まで浮かべていた甘い表情を消して戸惑いながら健二を見送る遠藤を見る。
「遠藤サン? どうも、うちの健二さんがお世話になってるみたいで」
その声音たるや、氷点下。まさに絶対零度の冷たさで、格闘技とは一切無縁だろう遠藤は一瞬にして蛇に睨まれた蛙状態に陥る。
一連の様子を見守っているテラスにいるゼミ生達も、佳主馬の豹変ぶりに固唾を飲んで見守っている。
「き、きみは一体、小磯くんのなんなんだい?」
それでも何とかこちらに対抗しようとするのは、良いのか悪いのか。
相手がどれほどの実力を持っているのか、知ろうともせずに挑発してくるのは余り賢明とは言えないなと佳主馬は冷静に思う。
「今の見て判らない? 俺は健二さんの恋人だよ。ああ、婚約者って言った方がいいかもね」
その言葉に、遠藤は返答に詰まり背後のテラスからは「かっけーーー!」という声が上がる。
「取り敢えず、余り健二さんに付きまとって彼女の邪魔しないでね。俺、結構嫉妬深いから、下手したらアンタのこと潰しちゃうかも」
凄絶な笑みを浮かべて、高い位置から見下ろす佳主馬の本気の殺気に恐れをなした遠藤は、なにやら聞き取れない捨て台詞をわめきながら去っていった。
「いや、わかんないから。何語?」
ああいう手合いはちょっとねちっこそうだから、後で手回ししておくべきだなと佳主馬は思う。
幸い、健二が師事している教授は栄ばあちゃんの教え子であるから、便宜を図ってもらえるだろう。
そんなことを思っていたら、健二が鞄を抱えて走ってくる。
「健二さん、慌てなくて良いよ。ほら、足元気をつけて」
「だ、大丈夫! ごめんね、佳主馬君。おまたせ」
つまづきかけた健二は、少しバツが悪そうにしながら側に駆け寄ってくる。
「いくらでも待てるから、健二さんは躓いたりコケたりしないように。資料放り出しそうになったよ」
「あ、模型入ってるからそれはダメ! ……最近はコケたりしてないよ」
駆けてきた健二の呼吸が収まるのを待ってから、資料室に向けて歩き出す。
そんな二人に、テラスにいたゼミ生が声を掛けた。
「小磯女史、おつかれさまでーす」
「明日、教授は出張で休講だそうですよ」
「ついでに、俺らも合宿なんで、明日研究室は誰もいませーん」
「彼氏とごゆっくりー」
矢継ぎ早にかけられる言葉に、健二が顔を真っ赤にして慌てる。
「え、えぇ!? 皆、いたの!?」
あまりの慌てぶりにゼミ生達は笑い崩れる。
「いましたよー! 小磯女史ひでー」
「いや、しょうがない。こんなラブラブだと俺ら目に入んねえよ」
「二人の世界だよなー」
「お幸せにー!」
「あうぅぅぅ……。お、おつかれさま!」
耳まで赤く染めて恥じ入った健二は、ヤケクソのように返事をして佳主馬の腕を取って歩き出す。
その可愛らしい様子に佳主馬は破顔して「健二さん、危ないよ」と窘めながら歩く。
テラスを通る際、こちらに視線を向けて渋いい笑みとともに会釈をする佳主馬に、ゼミ生たちは黙したまま見送る。
その二人の姿が消えてから、ようやく空気が動き出す。
「か……っけーぇ」
「なんつうか、スゲエイケメンだったな」
「学部生だよな。なんであんな落ち着いてるんだ」
「しかも、女史にメロメロじゃなかったか?」
突然現れた健二の恋人と言う男に、ゼミ生達の会話は一気に盛り上がる。
「あれは、騙されてるとかはないなー」
「しかも、さり気なく女史の荷物持ってるし」
「宝物扱いじゃん。見てる方が照れる」
「女史もいい男捕まえたなー。あの彼氏なら納得だわ、文句ない」
婚約者とまで言い切った男に、ゼミ生の好感度はうなぎのぼりだ。
彼ならば、小磯女史を文句なく幸せにするだろうと誰もが納得した。
「男から見ても格好良い」
そんな評価をもらった佳主馬は、そんなの全然構わずにただ最愛の健二だけに視線を注ぐのだった。
「小磯女史」と言うのが書きたかっただけです。
話的にはなんか、健二さんが女性じゃなくても良い感じの内容になっちゃった……(汗)
まあ、いいや(を
なんか、佳主馬が嫉妬する話にしたかったのに、無駄に佳主馬が格好良い話になってしまった。
盗み聞きするところだけじゃん、カッコワルイの。