数理ゼミの研究生、小磯女史こと小磯健二の朝はそれなりに早い。
欠伸を噛み殺しつつもぞもぞと起き出して、枕もとの携帯で時間を確認する。
「んー、起きないと……」
ベッドから上半身を起こして、体を解すべく伸びをする。
寝ている場所はベッドの真ん中でなく、ちょっと左よりなのは既に癖のようなものだ。
ベッドの右側が指定席みたいになっている人物が、いてもいなくても。いつのまにかそこを空ける癖がついていた。
今日は件の人物――健二の恋人である池沢佳主馬の姿は隣にはない。
レポートが大詰めだからと、ここ数日自分の部屋に篭っている。
健二はそんな佳主馬のために、大学帰りに買い物をして自分の部屋から歩いて5分ほどの距離にある佳主馬のマンションに夕飯を作りに行ってる。
あれこれ世話を焼いて、送るという言葉に「レポートがあるでしょ」と返して後ろ髪を引かれながら自室に戻ってくるのがここ数日の常である。
今週いっぱいで何とか仕上がりそうだといっていたので、通い妻状態はもう少し続く予定である。
「ええと、今日は当番だから…。講義の資料とOHPを準備して。教授は来週京都だから、休講の手続きをして」
寝ぼけながらも今日の予定を確認しながら、ベッドを降りて朝の支度を始める。
「今日の晩御飯はどうしよう…。佳主馬くん、魚の煮付けが食べたいっていってたっけ」
帰りにスーパーで煮付けに良さそうな魚を物色して行こうと思いながら、健二は顔を洗って歯磨きをする。
朝ごはんは薄めのコーヒーに牛乳をたっぷり入れたカフェオレに、パンと卵焼き。そして、インスタントのスープ。
一人のときは大体こんな感じで、佳主馬がいる時はボイルしたウィンナーや温野菜をつける。
適当に朝ごはんを済ませて、化粧をして髪をセットすれば後は着替えて出かけるだけ。
「レポート用紙が残り少なかったっけ。行きがけに購買に寄らないと」
寝室に戻って、もぞもぞとパジャマを脱ぎながら心のメモ帳にレポート用紙と書き込む。
いつものようにブラジャーを装着して、Yシャツを羽織りボタンを閉じている時。ふと、手が止まる。
「……んん?」
ボタンを閉じる時は下から上に。基本中の基本を健二もちゃんと守っている。
そのボタンかけの途中、残りボタン3つを数える部分で健二の手が止まっている。
閉じないわけではない、が微妙な違和感。
「……キツい…」
健二は眉根を寄せて、ポツリと呟いた。
池沢佳主馬は現在、はっきり言って多忙である。
大学での専攻科目で提出しなければいけないレポートの締め切りが目前であることと、スポンサーとの契約更改時期にきていること、さらに開発中のゲームのマスターアップ直前になって重大なバグが発覚したことで、その多忙さは類を見ないくらいになっていた。
だがしかし、中学の頃から勉学も仕事もなんとかこなしてきた佳主馬にとっては、疲れはするもののパニックするほどの事でもない。
レポート作成は順調で、今週中には仕上がる予定。
スポンサーとの契約更改については、何年もビジネスパートナーとして組んでいる会社ばかりなのである程度の融通は利くし、無理難題を押し付けて来ようものならばあっさり契約解除をしても痛手にはならないほど、スポンサー希望の企業は多い。
ゲームのバグは、佳主馬が高校に上がってから引きずり込んだプログラミングの専門家にして、現在在籍している学部の先輩にして院生である佐久間がここ数日首っ引きになって代行してくれている。
レポートが終り次第、援軍に向うと言っているが上手くいけば佳主馬なしでも解決する見通しが立ちそうだと昨夜連絡が来たばかりである。
ゆえに、他の学生に比べればはるかに多忙であるとは言え、佳主馬自身はさほどそう思っていなかったりする。
講義の合間に、足を伸ばして健二が在籍している研究室近くのテラスに休憩に行くくらいには、余裕があるのだ。
そんなわけで、テラスに向う道すがら。
前方を歩く学生の会話がなんとなく耳に入ってくる。
「来週、教授は京都だっけ」
「ああ、そういえば小磯女史が言ってたな」
会話からすると、どうやら健二が在籍している数理ゼミの生徒らしい。
恋人の名前につい反応してしまう自分に苦笑しながら、先ほどよりも意図的にその会話に耳を傾ける。
「小磯女史って言えばさ。あれはちょっと……」
「あー……、うん。松山さんが何とかしてくれるだろうけど」
そんな二人の会話に、不穏な空気を佳主馬は感じる。
「最近、大きくなってきたなーとか思ってたけど。今日の服はビックリしたわ」
「あれは、彼氏のせい……ってかおかげって言うんだろうなあ。つうか、本人無頓着なのは困る」
その彼氏が後ろで聞き耳を立てているのに気付かず、微妙な会話を繰り広げるゼミ生二人に業を煮やした佳主馬はとうとう我慢しきれず大股で二人に追いつく。
「ちょっと」
佳主馬の声に振り返った二人は、目を見開いて立ち止まる。
「あ、小磯女史の……」
「池沢でいいよ。さっきの会話、ちょっと聞こえたんだけど……健二さんがどうかした?」
突然、迫力のあるイケメンに声をかけられて、さらにそれが今話題に上らせていた人の彼氏となればゼミ生二人は動揺しないわけがなく。
慌てながらも、蛇に睨まれた蛙のように洗いざらい佳主馬に喋ることになった。
「は、胸?」
「そう、なんす。最近、大きくなってるかも、とか思ってたんだけど。冬服で薄着だったから、別に気にしてなかったんだけど」
「最近は気温も上がって、春物の服になったから。薄着になった分強調されてて」
彼らが数理ゼミに入ったばかりの頃は、名前からして男と間違えてしまいそうだったが、最近は髪を伸ばし同じゼミ生の松山ユリに影響されて化粧や服装に気を使い始めてから、すっかり女性らしくなった健二のことを二人は佳主馬に訴える。
「今日の服は、普通のハイネックのカットソーだけど…なあ」
「うん、ピッタリとしたタイプだから、余計に体型が浮き彫りと言うか……」
肌が見えないのに体のラインがくっきりなので、妙にセクシーだという言葉に佳主馬は眉間に皺を寄せる。
「多分、あんたのおかげというか、せいなんだけど」
「正直、男ばかりの研究室にあれはキツイっす。俺らはともかく、余所のゼミの人間が最近やたら小磯女史に馴れ馴れしいし」
「馴れ馴れしい?」
ピクリと眉を引き上げる佳主馬に、ゼミ生Aが竦み上がる。
「理数系は女子が少ないってのもあるけど、彼氏効果で小磯女史最近綺麗になったから…。彼氏いるの知らない野郎がちょっとね」
「彼氏がいるって言ってるのに、諦めない奴らがいるし」
話が進むほど佳主馬の機嫌はどんどん悪くなる。
「あー、でも。池沢が小磯女史の彼氏だって、周囲に見せ付けたら諦める奴増えるかも」
ゼミ生Bが慄きながらそんなことを提案する。
「確かに。どう足掻いてもかなわないレベルの男が彼氏だって知ったら、遠まわしにアプローチしたり物陰から見つめるだけのチキン野郎はあっさり諦めそう」
「……ふぅん」
「来週から教授が京都に講演しにいくから、数理の研究室って小磯女史くらいしか出入りしなくなるんだ」
「俺らも、新学期カリキュラムで研究室行く予定なかったりするしな」
ゼミ生ABの言葉に、佳主馬はふと考え込む。
研究室に健二さんしかいないとなれば、思いつめた人間が出ないとも限らない。
佳主馬は、意地でも全ての案件を今週中に片付けることを決意する。
「来週、研究室借りるよ。教授には話し通しておくし」
こういう時、件の教授が曾祖母である栄の教え子であったことに感謝したくなる。
陣内に連なる者として、随分目をかけてもらっている。
「ああ、うん。よろしく。池沢が付いててくれりゃ文句ないわ」
「俺らもフォローできることはするから。尊敬してんだ、小磯女史のこと」
二人の目には、健二に対して尊敬の念はあれど恋慕等の色はない。
先輩に対する純粋な好意を向けているのに、佳主馬はフ、と笑みを浮かべる。
「ありがとう。俺の手が回らないときは、健二さんをよろしく」
そのシニカルな笑みに、同性なのにも関わらずうっかり見惚れてしまったゼミ生ABは慌てて頷く。
「まあ、取り敢えず。健二さんの着てる服を何とかしないとね」
そう言って、佳主馬は健二が居るであろう研究室に交流を持つようになったゼミ生ABと一緒に向いながら、携帯を取り出してある人物に向けてメールを送信するのだった。
健二が一日のノルマを終えて、帰り支度をしている時。
大学を卒業してOLとして働いている夏希からの電話を着信した。
「はい、もしもし。夏希先輩?」
『あ、健二君? 久しぶり! で、今大学の正門前にいるから、すぐに来て!』
「は、え? えぇ!?」
有無を言わせず、用件だけ告げて途切れた通話に慌てながら、健二は帰り支度を終える。
何度かつまづきながらも正門前に辿り着いた健二を迎えたのは、すっかりキャリアウーマンになった夏希であれよあれよという間に彼女が乗ってきた車に押し込まれる。
「な、夏希先輩?」
「さ、シートベルト締めてね。佳主馬から頼まれたの。健二君の服を見立ててやってって。本当は自分で行きたいって言ってたんだけど、最近忙しいみたいじゃない」
涙を飲んで私に頼んできたのよ、と笑いながら夏希は車を発進させた。
「ええぇ!? な、なんで服?」
訳がわかっていない健二に、チラリと目を向けて夏希が嘆息する。
「健二君、最近服の胸、苦しいでしょ?」
「え、あ。はい……」
そういわれて、今朝方Yシャツのボタンがきつくて、すぐに外れてしまいどうしようもなくなったのでハイネックのカットソーに着替えたことを思い出して頷く。
「久しぶりだから、私もよく分からないけど。それ、バストサイズ2つくらい上がってるかもよ。今までのカットソーやシャツだと、きつかったり胸が強調されてしまうから、ちゃんと下着も買い換えて体型に合った服を買わないと」
ぶっちゃけ、それエロいわ。と同性である夏希にまで言われて、健二は顔を真っ赤にして恥じ入るしかない。
「で、佳主馬から軍資金はゲットしてるから、存分に買うわよー。ちなみに、今回の服代はもうすぐ誕生日の健二君へのプレゼントだから、遠慮禁止ですって」
そこまで根回し手回ししている佳主馬に、健二はもう何もいえなくなる。
「す、すみません……お手数、かけます」
消え入りそうな健二の言葉に、夏希はけらけらと笑い声を上げる。
「何を言ってるのよ。役得よ、私。健二君最近可愛くなったから、色んな服を着せたいわー。今日は私の部屋でコーディネート講座ひらくからね! 佳主馬にもうちに泊めるって言ってあるから」
自分の知らない間に、いろんなことがどんどん決められていることに健二は「さすが陣内の血族……」と思わずにはいられない。
この勢いに呑まれては、回避不能と言うことを重々承知している健二は、夏希に全部任せることにした。
「よ、よろしくおねがいします」
「はい、任されました! 可愛く着飾って、佳主馬を誘惑しちゃいなさいな」
「ゆ、ゆうわく!?」
目を白黒させる健二に、夏希は心底楽しそうにケラケラと笑って車を走らせるのだった。
小磯女史シリーズ、気が付くと3作目ですw
なぜか妙に人気なんで、ビックリしつつ嬉しいです。
佳主馬のおかげでバストサイズがアップした健二さんのお話。
というか、佳主馬と健二さんがいちゃいちゃしてない!?
これはこれで楽しかったですがw
そのうち、健二さんの胸を育成する佳主馬とか書いてみたいです。
乳育成ゲーム…!www