2011年早春。
世間を騒がしているモデルのニケが出演する新作プロモーションとポスターはこれまでにない反響を呼んだ。
【恋に堕ちた女神】
そんなキャッチコピーと共に、蕩けるような微笑みを浮かべたニケ。
その笑顔の鮮やかさに、ポスターを剥がして持ち帰ってしまう者が後を断たなかった。
さらなる反響を呼んだのは、ポスター発表の一週間後に流されたCMであった。
これまで、どこか機械的とも言える神秘的な、造り物めいた微笑みを浮かべるだけだったニケの。
それこそ、恋に堕ちる瞬間と言わんばかりに、画面に向かって鮮やかに表情を変える瞬間を余さず流された。
気高い女神が、ただの恋する乙女になってしまったかのような、甘やかで切なげな笑みに見るもの全てが釘付けになった。
白百合のみの背景は、数々の色鮮やかな花が咲き乱れ、天使の奏でる音楽はファンファーレのように高らかに鳴り響く。
そうして、ニケが物言いたげに唇を開く瞬間。
画面は青空のみとなりナレーションが流れる。
【女神が空から堕ちてくる】
そうして、化粧品メーカーのロゴが映し出される。
たった数十秒のCMが、世間を圧倒し。
ニケブームはさらに高まったのだ。
「ホント、女は恋すると変わるっていうけど。お前も立派に女だったんだなー」
いつもの物理部室で、部費の大半をつぎ込んでカスタマイズしたPCを使いながら、佐久間が感慨深げに呟いた。
対する健二は、佐久間の言葉に憮然としながら数学の参考書を開いている。
「立派ってなんだよ。ボクは普通に女だよ、失礼な」
そんな風に切り返していても健二は、自分が以前に比べて随分と女であることを意識するようになったと思う。
「いい傾向だよ。夏希先輩と仲良くなった時も思ったけどさ。ちゃんとスカートはいて、女同士しかできない遊びをするようになってから、ニケの顔が変わった。そして今、お前に好きな相手が出来て、一喜一憂するようになって、健二もニケも驚くくらい綺麗になったよ」
タン、とエンターキーを押して、「ちょっと娘を嫁に出すような心境で複雑だけでな」と佐久間は明るく笑う。
小さな頃から兄妹のように育ったため、頑なに自分が女であることから目を逸らそうとしていた健二を佐久間は憂いていた。
夏希と出会うまでは、頑固に男子用の制服を着ていたし、膨らみ始めた胸を厭ってチューブトップでキツく抑えつけてもいた。
それが、半年前の夏。夏希に連れて行かれた上田で、健二は信じられないくらい変わった。
まるで蛹が蝶に羽化するかのように。
あの夏、陣内家では「小磯改造計画」まで発令して大騒ぎだった。
『なに、あんた!こんなのでずっと潰してるの!?胸を過酷な環境に晒す事で、成長を促す武者修行とかやってんじゃないんだから、ちゃんとしたのつけな!』
陣内の最強と言われている女性陣に囲まれて、喧々諤々とされた健二は押し切られるようにちゃんとした女性用下着をつけるようになった。
上田で街に連行されて、ちゃんと測ってから買ってくれたらしい。
『これ、私たちのプレゼントだから。使わないと、判るわよね?』
そんなことを笑顔で宣ってくれたのは、直美とタッグを組んだら誰も勝てないという理香で。
他にも万里子や聖美までが、ノリにノッて健二に似合いそうな服を買って押し付けたため、帰ってきたときの健二の荷物はものすごかった。
そんな一件もあってか、健二は夏休み明けて随分と女らしい格好をするようになった。
夏希も大喜びで、髪を伸ばさせたりピンで飾ったりと甲斐甲斐しい。
それだけには留まらず、陣内の人間は今までピクリと動きも目覚めもしなかった、健二の女としての意識をあっさりと揺り起こした。
健二は上田で出会った少年に恋をした。
恋とはいえないかもしれない、淡い淡い感情だったが。
憧れ続けていた、OMC最強の戦士。
それを操る者がまさか4歳年下の少年だったとは思いもしなかった。
最初は驚き、全てが終わった後落ち着いてから憧れの存在を目の当たりにしたことに興奮した。
しばらくして妙に避けられていると気づいたときは、自分のミーハー根性にウザがられたのかと不安になった。
結果、それは誤解であったと知り、飾らない彼の姿に今まで感じたことのなかった思いが浮かんだ。
本当は、始めから気になっていたのかも知れない。
OMCをゲームではなくスポーツだと言い、誹謗中傷のなか凛然としていて、強い光を宿した瞳に。
家族を守りきれなかったと、悔恨の涙を流すしなやかで素直な心根に、健二は目が離せなかった。
彼を思うたびに、健二の胸の奥は甘く疼いた。
彼――池沢佳主馬はなにが楽しいのか、健二に親しみを示しメールやチャットの誘いをかけてくれる。
東京に来る用事があれば、ご飯を食べようと声をかけてくれる。
佳主馬と会う約束をする度に、服装や髪型を気にする健二を見て佐久間と夏希はすぐに気づいた。
下手に騒ぎ立てると、変なところで頑固な健二は恋心を否定してなかったことにしてしまうかもしれないと、二人は変につついたりせず見守った。
健二の中で、淡い思いが育つように。本人がそれは恋であると自覚できるように。
健二は生来の晩生さを発揮して、実に半年もの時間をかけて己の感情が恋であるということを、やっとのことで理解してくれた。
恋した娘の変化を気取らないはずがなく、健二の母親は雰囲気の変わってきた一人娘に「新作プロモのコンセプトを変えなきゃ」と半分決まりかけていた企画書を放り投げて、今回のプロモーションを作ったという裏話まである。
つまり、健二が恋をして綺麗で可愛くなったというのは周囲の誰もが知る事実であり、それがどれだけ周りに影響を与えているかを知らないのは、鈍い本人ばかりということなのだった。
恋の自覚。というか健二さん晩生すぎる。