Jet Stream Attack
本文サンプル――抜粋

「来週から二週間ほどアメリカの大学に行くから」
 教授の言葉に健二は「なんだ」と安堵する。
 己が所属しているゼミの教授は、なかなかアクティブな性格でイギリスやアメリカなどに積極的に出かけて教鞭をとったり、アメリカの大学教授らと合同研究を進めたりしているのだ。
「あ、はい。わかりました、いってらっしゃい」
 教授が留守の間、研究室を預かるのは教授の踵下にいる助教授や院生である健二たちだ。
 だから、遠征にでる前には必ずその旨を伝えてくれることになっている。
 だからいつものように対応したのだが、教授はとんでもないことを宣った。
「なにをのんきな、君も一緒にアメリカに行くんだよ。パスポートの期限気をつけておいてね」
 あっさりと、後で工学部に顔をだすから一緒においでよとでも言わんばかりの軽い言葉に、健二は聞き流そうとして失敗する。
「あ、はぁ……、わかりま……って、アメリカにですか!?」
「うん、さっきから言ってるじゃない。小磯君は最近英会話を習い始めたって言ってたよね。まあ、今回は通訳の子つけてあげるけど、次回からは自分でもちゃんと喋れるように頑張ってね」
 自分の言いたいことだけ言って、教授は「さて講義の時間だ」と鼻歌交じりにテキストと教材を手に研究室を出ていく。
 あまりのことに口をポカンと開いたまま硬直している健二だけが、研究室に取り残されたのである。

「アメリカぁぁ!? あの教授も相変わらずいきなりだなあ」
 昼休み、学部生だった頃から入り浸っているサークル部室でいつものようにコーヒー牛乳を飲みながらPCに向かっている佐久間に、今朝がた聞かされた教授からの通達を話せば素っ頓狂な声でそんなコメントが帰ってきた。
「まったくだよ。英会話だって、教授が習っておけば論文作成で困ることが減るからって、習いに行かされてるようなものなのに」
 まさかこんな魂胆だったとはびっくりだ、と健二がぼやく。
「それにしては、キングと一緒に通うんだってお花畑してたじゃないか。キングは仕事で使うだろうから、TOEICは必須だろうしな」
 図星を突かれて健二はぐっと黙り込む。
 確かに、英会話教室に通うのを後込みしていた時、佳主馬が自分も習おうと思っていたから一緒にいくと言ってくれたことを、かなり喜んだのも事実だったりする。
 だからといって、心の準備が全くできていない状態でアメリカ研修にいくからとあっさり言われても、正直戸惑わないわけがないと思うのだ。
「そ、れはそうだけど……。でも、突然だとやっぱりさあ。しかも、来週って言うのは突然すぎると思うんだけど」
 佐久間はその言葉に「まあ、それはなぁ」と同意する。
「でも、お前は海外が初めてって訳じゃないしなぁ。教授もそこら辺があるから、あんな急にヘロっと言ったんだろうな」
 確かに健二は、国際数学オリンピックの日本代表としてカザフスタンに行ったことがあるし、単身赴任中の父親に会いに行くと突然母に連れられて飛行機に乗る、ということがよくあるのでパスポートの期限はまめに更新しているのだが。
 それこそ良い迷惑である。
「尊敬して師事してる教授だけど、ああ言うところがちょっと困るんだよな」
 来週からだなんて急すぎる、今水曜日じゃないか。とぶつぶつぼやいている健二を見ながら、佐久間は親友の前に立ちはだかるだろう一番の難関について聞いてみたい気になる。
「キングにも言わなきゃなー」
 佐久間の言葉にピタッとボヤくことを停止した健二は、たっぷり五秒ほど間をおいて深い深いため息をついた。
「そうなんだよ……」
 いずれはアメリカで数学の研究をしたいと思っている健二を、佳主馬は理解して応援してくれている。
『俺の仕事相手は世界各地にいるから、別に日本にいることに固執しなくて良いし渡米するならもちろん一緒に行くよ』
 意を決して渡米の夢を語ったときに、健二よりもよっぽどグローバルな仕事を中学の頃からこなしている佳主馬はまるで裏山の散歩につきあうよ、とでも言うかのように至極あっさりと賛同してくれた。
 だから、今回のアメリカ研修も出発日が急でなければ手放しで祝福してくれるに違いない。
 いや、出発がいつだろうと彼ならば『よかったね、健二さん。頑張って』と応援してくれるだろう。
 健二にとって現在一番の問題は、教授がつけてくれると言っている通訳さんのことだ。
 自分のことを美化して過ぎてないか、と健二が戸惑うくらい佳主馬は盲目的とも言える一途な想いを向けてくれている。
 もちろんそれは健二にとって、面映ゆくも嬉しいことなのだが多少弊害があることは否定しきれない。
 佳主馬は、ちょっと行き過ぎなくらいヤキモチを妬くのだ。
 相手が男であろうと女であろうと関係なく、牽制し時には敵意に近い鋭い視線を向けたりもする。
 一時期は親友である佐久間にも、微妙な視線を向けていたこともあった。
 健二自身は自分が全然モテる人種じゃないことを重々承知しているのだが、何度訴えても佳主馬は頷いてくれない。
 果ては『健二さんは、自分の魅力と価値を全然わかってない』と憮然として宣うのだ。
 恋人バカもここまでくれば大したものだ、とは佐久間の弁である。
 そのくせ、健二の元恋人である夏希と手をつないで歩いたりしても佳主馬は嫉妬する様子がない。
 又従姉弟だから安全だと判断しているのかと思えばそうでもなく、理一や翔太が健二に近づくとちょっと警戒したり割り込んでくる。
 いまいち佳主馬が嫉妬心を抱く相手のパターンが読めないと、健二は常々思っているのだ。
「渡米については、たぶん問題ないと思う。ただ、ついてきてくれる通訳の人を凄く警戒しそうだよ」
 健二が佐久間に言えば、深々とした頷きが返されてしまう。
「あー、通訳さんと言えば渡米中は四六時中そばについてるだろうしな。男だろうが女だろうが、キングが荒れるなー」
 あっさりと、他人事だから面白がらなければ損だと言うようなニヤニヤ笑いで、健二に追い打ちをかける。
「はぁ……、ちょっと気が重い……」
 これが失意に苛まれる人間です、とサンプリングしたいくらい見事に背を丸めて健二は深くため息をつく。
 それでも、自分が住んでいる部屋に帰らないわけにはいかず、隣の部屋に住んでいる恋人と顔を合わせないでは一日を終えられないのだ。

2010-03-21 HARU COMIC CITY 15 頒布予定