陣内家の人気者

 Piririririri……

 携帯から発せられた着信音が耳に入り、夏希は充電器に設置しておいたそれを手に取る。
 メールかと思ったそれは、通話着信で発信者の名前と番号が表示される。
「あれ、佳主馬からだ。珍しい。――はい、もしもし佳主馬?」
 滅多に連絡をしてこない又従兄弟を不思議に思いながら、通話ボタンを押せば聞きなれた無愛想な声が受話器から聞こえてくる。

『もしもし、夏希姉ちゃん。今平気?』
 無愛想ながらも、こっちの都合を考慮する言葉に夏希は微笑ましい気分になる。
 去年までなら、そういう気遣いは余りしたことがなかったのに。
 やはり、妹が生まれて兄になると色んな意味で成長するんだろうと夏希は思う。
「うん、大丈夫だよ。どうしたの?」
 幸い、大学生は既に夏休みに入っているうえに、今日は一日家の手伝いをして外出しなかったから宵の口とは言え、既にお風呂も済ませて寛ぎタイムだ。
『今年の夏なんだけど、上田に健二さん連れてくるの? 連れてくるかどうか聞けとか、むしろ絶対連れて来いとか母さん達うるさいんだけど』
 健二さん今カザフスタンでしょ。と、佳主馬のちょっとうんざりしてる物言いに、思わず夏希は笑いが漏れる。
 聖美の口調まで容易に想像がつくくらい、その光景が眼に浮かぶ。
「あははっ! さっき万理子おばさんからも電話があったのよ。あんたは来なくても健二くんだけは来させろって、酷くない?」
 さらに言うなら、万作、万助、理一、理香を初めとして、陣内家の人間のほとんどが既に夏希にそういう電話をかけてきていた。
 その理由は、健二が今年の1月と2月に開催された日本数学オリンピックを勝ち抜き、さらに春に行われた強化合宿で国際数学オリンピックの代表選手に選ばれたからだ。
 代表枠6名と言う小さな可能性を、今年は見事に手に入れた健二は、現在その国際数学オリンピックに参加するためカザフスタンの首都に行っている。
 さすがにそんな大変な中、直接連絡をするのは憚られると良識を持っているのか陣内家の面子は恋人である夏希にひっきりなしに連絡してくるのだ。
 唯一の連絡窓口として。
 夏希だって邪魔をしたくないから、メールをするのは控えめにしているが、陣内家に誘われたとメールで報告するたびに相変わらず恐縮しまくっている様子が微笑ましくて可愛いと思ってるのは内緒だ。
 もちろん、佳主馬から連絡が来たということも後で伝えることは決定している。
『むしろ、夏希姉ちゃんがいないと健二さん来ないんじゃない?』
 佳主馬の言葉に、もっともだと夏希は思う。
 そもそもが万事控えめで大人しい青年なのだから、多少無理矢理にでも納得させたほうがいいのは恐らく陣内家の人間全員が知っているだろう。
「遠慮しーだもんねぇ。でも、うちの一族ってどんだけ健二くん大好きなのって思うわ。夏休み目前にして今みたいな電話が結構ひっきりなし」
 ちょっと妬けるわ、私の彼氏なのに。とぼやけば、電話口の佳主馬が小さく笑いを漏らす。結構珍しい。
『アイドル扱いだよね。母さんにも数学オリンピックもある上に、今年受験だから来れないんじゃないって言ったのに、うるさくて』
 いい加減、耳にタコが出来るよ、と佳主馬はげんなりしているようでそれがさらに笑いを誘う。
「私もそういったんだけどねー。そんなの知らないとか、こっちで勉強すればいいとか」
 日本数学オリンピックの上位者には特別推薦枠がいくつかあるというのは、面倒くさいから佳主馬は言ってないようだ。
 夏希だって、家族には言っていない。それを言ってしまえば「じゃあ受験は心配ない」とか言いながら夏休みいっぱい上田に引き止められてしまいそうだからだ。
『あの騒がしさで、勉強は無理だと思う』
 間髪を入れないツッコミに、夏希は深く頷く。いや、電話だから見えないけど、それくらい同意する言い分だ。
 あの騒がしい家で、落ち着いて受験勉強が出来るはずがない。
 何かあれば皆が健二くん健二くんと、老若男女問わず構いたがるだろう。
「だよねー。でも、根詰めすぎるのもよくないから、息抜きとオリンピックの慰労会にどう? って聞いたら結構その気だったわよ」
 健二自身は、上田の家を嫌っていない。
 むしろあの賑やかしさや、騒がしい雰囲気は好きだと言っている。
 いつも家では一人だから嬉しいと、あの笑顔で言われたらちょっとくらい勉強する期間が短くても良いんじゃないかとか言いたくもなってくる。
 夏希だって、健二の喜ぶ顔が見たいのだ。
『じゃあ、もう一押しじゃん。あんまり焦らすと、帰ってきた健二さんに電話直接攻勢しそうだから、早めに決めちゃったほうがいいよ』
 余りにも簡単にその様子が想像できて、もはや夏希は乾いた声で笑うしかない。
 電話口の佳主馬も呆れたようにため息を吐いている。
「それって、もう選択肢『行く』しかないわよね。ま、私も健二くんと遊べるの嬉しいから、もう少し説得しようかな」
 大学生になった夏希と受験生で日本代表選手の健二は、お互いが色々忙しくて去年に比べたら会う回数が減っているのだ。
 上田に連行するのを口実にしてそばにいたいと思うのは、夏希の乙女心と言っても良いだろう。
『はいはい、受験生に許された短い期間だけど、思う存分ラブラブしなよ』
「らっ! ラブラブって……!」
 呆れ交じりの佳主馬のからかいに、健二と付き合うまでは昭和初期? と聞きたくなるくらいの清く正しい生き方をしていた夏希は面白いくらいに動揺する。
『違うの?』
 それを判っていてからかってくる佳主馬の含み笑いに、目の前にいたら頭をわしゃわしゃしてやるのに! と夏希は顔を赤くしたままで思う。
 けど、やっぱり恋人同士ならそれらしく、デートしたり手を繋いだりしたいのは本音だったりするのだ。
「ち、ちがわない……けど、なんか無理。恥ずかしい。超照れる」
『夏希姉ちゃんと健二さん、ホントお似合いだよ。オクテなところとか特に』
 あーぁ、と首を振ってるのが電話口でもわかるくらいの言い方に、夏希は限界に達したらしい。
 中学生になってからの佳主馬は、OZの世界で有名になってきたせいか生意気! と思う。
「あぁ、もー! 悪かったわねー! 慣れてないんだから仕方ないじゃない」
 キング・カズマは夏希でもテレビとかで見かけるのだが、やっぱりどう考えても佳主馬は中学生の身内にしか見れない。
『悪いとは言ってないよ。まあ、仲がいいのはいい事なんじゃない? 安心した』
 夏希の照れ隠しの憤慨をあっさり受け流すあたりが小憎らしいが、やはり可愛い又従兄弟なのだ。
 ちょっと落ち着いてから、夏希はため息を吐いてさっきからずっと思ってたことを口に出す。
「陣内家の例にもれず、佳主馬も健二くんのこと好きよねぇ。珍しい」
『あの人多分、陣内家をメロメロにするフェロモンでも持ってるんじゃない?』
 珍しく身内以外の人間に懐いていることを否定しない佳主馬の言葉が、余りにも秀逸で夏希は思わず噴き出す。
「ぶっ! ありうる! ま、この様子じゃ健二くん連れて行かないと後が怖いわね。頑張って説得しよう」
 机においてる卓上カレンダーを手にとって、自分の予定と健二の都合をもう一度考える。
 恐らく大おばあちゃんの誕生日にあわせていくほうが皆が集まるから、その前後にすれば良いだろう。
 海外から帰ってきて、ほぼすぐに引っ張り出すことになりそうだけど疲れが取れるまでは佳主馬のいる納戸に避難させておけばちびっ子達も手は出せないだろう。
 夏の補習や講習は今からなら十分調整が聞くはずだ、去年の夏希がそう出来たように。
『ま、頑張って。それじゃ夏休みに』
 佳主馬がそう言って、会話を締める。
 電話の向こうで泣き声が聞こえるから、妹の様子を見に行くのだろう。
 意外にも佳主馬は面倒見の良いお兄ちゃんのようだ。
「うん、夏休みにね。おやすみ、佳主馬」
『おやすみ、夏希姉ちゃん』
 挨拶をして通話を終了する。
 携帯を充電器に設置しなおして、スケジュール帳を開いて卓上カレンダーとにらめっこする。
 ついでに時計を見る。
 カザフスタンの首都はUTC+6、日本はUTC+9時差は、およそ3時間ほど東京の時間は進んでいる。
 今ごろは、夕飯を食べ終えてお風呂に入っているか、他の選手と模擬演習でもしているかもしれない。
「頑張ってるかなぁ」
 純粋に会いたいと思う。
 声も聞きたいけど、やっぱり今は集中して欲しいからもうしばらくの辛抱だろう。
「うん、やっぱり上田に連れてかなきゃ」
 自分が一緒にいたいから。
 そう決めると、夏希はもう一度携帯を手にとってメールを打ち始める。
 最初は、こんばんはから。
 用件と、ちょっと会いたいなって付け加えて、最後は頑張って、健二くんならきっとできる!と締める。
「大おばあちゃんも、健二くんを応援して!」
 メールを確認して、送信するときに小さく呟く。
 後一週間ほど待てば、こっちまで嬉しそうな笑顔の恋人に会えるだろう。
 ちょっと落ち込んでたら、頑張ったね! って背中を叩いて励まそう。
 彼に負けないくらいのとびっきりの笑顔で出迎えよう、そう決めて夏希は小さく微笑んだ。

数学オリンピックの日本予選て1月なんですね。映画で7月に健二がくよくよしてたから、日本予選がそれくらいだと思ってました。
日本代表を選ぶのが4月の合宿だから、健二は実に3ヶ月もくよくよくよくよしてたわけですね。どんだけー……
まあ、選考結果が出るのは4月の合宿終って後日連絡、かも知れないので最大3ヶ月ですが。それでも長いな…
ずっとそれを傍で見てた佐久間は南無いと思います。
と言うわけで、夏希と付き合ってる健二。でも本人が出てない罠w