慕わしく呼ぶ、その名を

「紗佳栄」
 それが佳主馬の妹の名前である。
 誰からも慕われていた栄が彼岸へと旅立ち、そして陣内の英雄とも言える人物を迎え入れた、あの忘れ得ない年に生まれた妹。
 事件の後に生まれた赤子に、陣内の大人たちは皆感慨深いものを感じていた。
 失われた命と、新しい命。
 まるで、ユズリ葉のように曾祖母である栄が妹に命を託したようにも思えたのだろうか。
 それとも、少しでも栄を偲ぶよすがを求めたのだろうか。
 妹は曾祖母の名前の韻と字をもらい受けた。
 紗佳栄の名は、親戚中から呼ばれる。
 曾祖母を思い、新しい命を慈しんで優しく。
 まだ幼い妹だけれど、大きくなったらその名前の由来とあの夏にあったことを語ってあげたいと佳主馬は思う。
 理解できないかも知れず、信じないかも知れないが確かにあの年、あの夏に陣内家……いや、世界を揺るがす大きな事件が起こったのだと、そこで陣内の家族たちは全員で闘ったのだと繰り返し語ってあげたい。
 お前が名前を貰った人は凄い人だったんだよ、と。
 そして毎年やってくる、血は繋がっていないけれど大事な家族である健二さんは、陣内家を守ったヒーローなんだよ、と。
 今はまだ、正式な家族ではないけれど。
 遠くない未来に、彼はきっと名実ともに陣内の一員になるだろう。
 面差しや性格が曾祖母である栄によく似た、またいとこの夏希と結婚して。
 そして、正式に健二を迎え入れた陣内は彼によって繋がれた絆をずっと守っていくのだろう。
 佳主馬は、その日が楽しみで……そして怖かった。
 己の胸の裡に芽生えた、淡い感情は日を追うごとに少しずつ育っていってる。
 決して、気付かれないようにあふれ出してしまわないように、注意深く閉じ込めておかなければならない。
 健二さんと家族で在り続けるために……。

「けんーけんー」
「わ、さーちゃん大きくなったね。僕のこと、覚えててくれて嬉しいよ」
 二歳になったばかりの妹は、日だまりのように優しく微笑む健二が大のお気に入りだ。
 上田の本家に来る度、紗佳栄は健二のそばにいたがる。
 それは、紗佳栄だけでなく他の親戚たちも同じなのだが。
「あはは、紗佳栄ちゃんもしっかり陣内の人間ね。健二君大好きなところとか、間違いないってかんじ」
 健二さんに「さーちゃん」と柔らかく呼ばれ抱っこして貰ってご満悦の紗佳栄に、寒いから暖まってねと甘酒の載ったお盆を持ってきた夏希がこらえきれないとばかりに笑う。
「ええ? それどういうこと、夏希さん」
 すっかり「先輩」呼びと敬語が取れた健二さんの言葉にふふふっと笑って、夏希姉ちゃんは甘酒を手渡す。
「そのまんまよ。陣内の人って、全員健二君のこと大好きなんだもの。健二君はきっと、陣内家の人をメロメロにするフェロモンを持ってるに違いないって、佳主馬と話したことがあったくらいよ。ね、佳主馬」
 夏希に話を振られた佳主馬は、眉を下げて困ったような視線を向けてくる健二を見て、うっすら笑いながら頷く。
「あったね、去年くらいだった。健二さんが数学オリンピックでカザフスタンに行ってるとき、陣内の人が全員夏希姉ちゃんに夏休み健二さんを連れて来いってうるさかった」
「そうそうそれそれ。佳主馬も健二君に懐いてるし、凄い威力のフェロモンよね」
 侘助おじさんも健二君のこと気に入ってるみたいよ、とあっけらかんと言う夏希に健二は顔を赤くしてあわあわわたわたしている。
「えええぇぇぇ!? フェロモンなんて、そんなのないですよ!?」
 自覚がないとはまさにこのことだ、と言わんばかりに夏希と佳主馬は顔を見合わせて肩を竦める。
 紗佳栄はその会話の内容は理解できなくても、大好きな兄と健二、そして優しい夏希がそばにいてご満悦なのか、にこにこと笑顔でホットミルクを飲んでいた。

「はやてー」
 縁側で小さな紗佳栄が庭に積もった雪に喜ぶ子供たちと走り回るハヤテをみてはしゃぐ。
 優しく利口なハヤテは、その小さな呼び声にしっかり気づいてタタタっとかけてきて、ワフワフと吼える。
「紗佳栄、撫でるときは優しくな」
 ハヤテに触れようとする紗佳栄に、そばに座って手袋やマフラーなどを装備させた佳主馬がそう注意するとちょこりと頷く。
「あい、やさしくー」
 そして、兄に言われたとおり優しくそっと、ハヤテの頭や喉元を撫でる。
 ハヤテも紗佳栄の意図を知って、尻尾を振りながらじっと撫でられるままでいる。
「さーちゃんはえらいね。ハヤテも気持ちいいって」
 健二の誉め言葉が嬉しいのだろう、満面の笑みでそれはそれは嬉しそうに紗佳栄が頷いた。

 紗佳栄の周囲は優しさに、愛に溢れている。
 そう、佳主馬は思う。
 その優しく愛に溢れた環境を作ってやれたのも全部、二年前の夏に健二が陣内家を……世界を守ってくれたからだ。
 最後の最後まで諦めずに、あらわしが落下するギリギリまで粘って見事守り抜いてくれた健二が、他の誰よりも紗佳栄の名前を慈しんでいる。
 他の誰が呼ばうよりも優しく、キラキラした響きで「さーちゃん」と呼ぶのだ。
 思考よりも本能でそれを感じ取る小さな妹が、それに気づかないはずがない。と、佳主馬は思う。
 だから、紗佳栄は健二にとても懐いているのだろう。
 ともすれば、父親が複雑な表情をするくらいには。
 この優しい世界が、この先ずっとずっと続くように。
 壊れてしまわないように、と佳主馬は祈る。
 自分の感情なんかどうなってしまっても構わないから、ずっと隠したままでいるから、どうか。
 どうか、健二がいつまでも慕わしい大おばあちゃんの名を呼び続けることができますように、と。

時期的には冬ですね。
佳主馬が少しずつ自分の想いを自覚してきました。
でも、夏希といる健二さんはとても幸せそうで、自分がどうにかしちゃいけないとも思ってます。
そして、妹ちゃんの名前をとうとう決めてしまいました。
栄さんの漢字と韻を貰ってしまえ!と開き直って紗佳栄さんです。
健二さんに「さーちゃん」とか佳主馬に「さーこ」とか呼ばれてると可愛いなとか一人でニヤニヤしてます。