君が月が綺麗と言うのなら。

「わ、今日は満月だ」
 すっかり暗くなった空を見上げて、健二が呟く。
 中天にはぽっかりと、そこだけ夜空を切り取ったかのようにまん丸い月が浮かんでいる。
 なぜこんな時間に健二が外を歩いているかと言えば、ひとえにゼミの研究があったからである。
 どうしても師事したい教授がいると選んだ大学の数学科に籍を置いて既に三年目。
 大学の4回生になった健二は、一昨年から尊敬する教授が受け持つゼミに参加している。
 これだけが取り得と言ってもいい健二の数学力は、件の教授の覚えもめでたく何かあれば指名を受けて論文の手伝いや演算の助手に駆り出されている。
 今日も、学会で発表するという数式論理の演算を教授を含めた数名のゼミ生と喧々諤々議論したのだ。
 そして、とっぷりと日が暮れたこの時間になって漸く目途がついたといって、帰宅できることになった。
 延々と喋ったり数式を書き連ねていたおかげで、健二は酷く疲れていた。
 幸い明日は、必修の講義はなく既に単位を取得していて出なくても問題ない講義だけだ。
 さらに言うならば、その次は週末である。
 卒論についても、大筋は教授からお墨付きをもらってるので慌てる必要はなさそうだ。
 三日間休んでも、誰からも文句は言われない。
「とりあえず、ご飯を食べてお風呂に入って……メールチェックしたら寝よう」
 月を見上げて歩きながら、健二は呟く。
 疲れを癒すべくしっかりご飯を食べて、睡眠をとることを体が要求している。

――いけないのは、お腹が空いていることと、一人でいること。

 5年たっても鮮明に思い出せる栄おばあさんの言葉は今もって、もっともだと思う。
「……寂しいなあ」
 ぽつりと呟く。
 健二は自分が思いのほか、寂しがり屋だということに5年前気付かされた。
 一人でいることに慣れていたはずなのに、お祭り騒ぎのような陣内家の賑わいにそれが一番欲していたものだと実感した。
 陣内家と健二を繋いでくれた夏希との付き合いが終ったのは、もう2年も前のことだ。
 もう、あの場所に行くことは許されないだろうと思うと、無性に悲しくなったのを覚えている。
 だが、一度結ばれた陣内家との縁はちょっとやそっとじゃ切れなかったらしく、今は違う人が健二を結び付けてくれている。
 満月を見上げていて、不意に思い出した。
 そういえば、月には兎がすんでいるって言うよね、と連想したからだ。
「うーさぎ、うさぎ。なーにみて、はーねる」
 子供の頃習った歌を小さく口ずさみながら、健二はポケットにしまっていた携帯を取り出す。
 今思い出している人物は、受験生な上に現在テスト期間真っ最中だから連絡を取ることは自粛している。
 健二自身もゼミが忙しいと言ったので、相手からの連絡は日に一度。今日のメールは既に昼に来ていたため、追加の連絡はこないだろう。
「メールチェックのついでに、研究がひと段落ついたって連絡しとこっかな」
 そう思いながら携帯を眺めていると、不意にピリリリリと手の中のそれが自己主張を始める。
「うわ」
 驚いて液晶を確認すれば、メールでなく電話着信で。
 相手は、今まさに思い出していたウサギのアバター。
 慌てて通話ボタンを押して、携帯を耳に押し当てればずっと聞きたかった低くて柔らかい声が聞こえてくる。

『もしもし、健二さん? 今、大丈夫かな』

 もう、その声だけでさっきまでの寂しい気持ちが帳消しにされてしまう自分を現金だなと笑いながら健二は応える。
「もしもし、佳主馬くん? 大丈夫だよ、ゼミの研究も目途がついてやっとしばらくゆっくり出来そうになったんだ」
 だから、明日から自主的に三連休の予定。と返事をすれば『ちょうど良かった』との言葉が返ってくる。
『こっちも、今日試験が終ったんだ。明日から試験休み』
 同じ三連休だね、との言葉に名古屋と東京で距離は離れているけどスケジュールが被ったことがなんだか嬉しくて健二は小さく笑いを漏らす。
「試験お疲れ様、出来はどんな感じだった?」
『まあまあかな。それなりに頑張ったから、手ごたえはあったよ』
 健二の問いかけに、サラッと返事するあたりが佳主馬らしいと笑みが浮かぶ。
「それは良かった。あ、そういえば今日は満月だよ」
『うん、まん丸だね。って、健二さん今外にいるの?』
 電話から聞こえる声や音から言って、佳主馬も今外にいるのだろう。
 同じように月を見ながら話していると思うと、くすぐったい気持ちになる。
「そう、さっき大学を出たばかり。今家に向かってるよ」
 健二は大学に入学して、一人暮らしを始めた。
 住んでいる部屋は、大学から徒歩20分くらいの位置にあるアパートだ。
 お前は通学で少し歩く程度が体に良い、とは親友である佐久間の言葉だが、その判断は正しいかもしれないと思う今日この頃だ。
『そうなんだ。じゃあますますちょうど良いや』
 含み笑いの混じった言葉に、首を傾げながらも健二は自分の住んでいるアパートに向かって最後の角を曲がる。
 そこを曲がれば、50メートル先にコンビニエンスストアがありその10メートル先にアパートがある。
「佳主馬くんも今外にいるんだよね? 帰り道?」
 その問いかけに、電話先の恋人は『今は、コンビニの前にいるよ』と返してきた。
 コンビニかぁ、と呟いて自分も今コンビニの近くにいるんだよ、と返そうとして健二は言葉に詰まる。
 10メートルちょっとの距離まで近づいたコンビニエンスストアの前に、見覚えのある長身の青年が立っている。
 健二は、ついに自分は幻を見るくらい佳主馬に会いたいのかと思ったが、あろうことかその幻は健二の姿を見るや携帯を耳に当てたまま空いている手を上げて微笑んだのだ。
『試験休みだし、会いたくなったから来ちゃった』
 耳に入るその言葉は、携帯電話と佳主馬本人の口のステレオ放送だ。
 既に通話の途切れた携帯を握ったまま呆然とする健二に、甘やかな微笑みを向けて佳主馬は足元に置いた鞄を抱え上げる。
「会いに来たのはいいけど、健二さんが忙しかったらどうしようかと思ってた」
 ラッキーだった、と言う佳主馬の言葉にも健二は呆然としたままだ。
 ああ、どうして。と健二は思う。
 数式だと己の脳みそはスムーズに回転して答えを導き出してくれるのに、こういうときにロクに動いてくれない。
「か、ずま……くん?」
 躊躇いがちに、本物? と問えば少し呆れ気味のいつもの表情で覗き込まれる。
「本物だよ。偽者とかいるの?」
「いや、いないけど……。じゃなくて、会いたいなって思う自分が見せる幻かな、って」
 健二の言葉に、佳主馬が一瞬言葉に詰まりすぐに嬉しそうに微笑む。
「幻を見そうなくらい会いたいって思ってくれてたんだ」
 どうしよう、凄く嬉しいんですけど。と言われて、漸く健二は冷静さを取り戻す。
「もう、びっくりした」
 それだけ言って、佳主馬を促してアパートに向かって歩き始める。
 本当は、抱きついてしまいたいくらい嬉しいけれど、暗くなったとは言えまだ宵の口な上、人の多いコンビニエンスストアの前だ。
 人一倍人目を気にする、というか恥ずかしがり屋の健二が素直に恋人に甘えるためには、速やかにアパートに帰宅するしかない。
 それを知っている佳主馬も、文句を言わずに鞄を抱えて健二の隣に並ぶ。
「ちょうどね、月を見ながら佳主馬くんを思い出してたんだ。月にはウサギが住むって言う話とか思い出して」
 その言葉に、佳主馬は小さく笑って「そっちなの?」と呟く。
「どうせなら、夏目漱石を思い出したって言ってよ」
「あはは、数学バカの名をほしいままにしてる僕には、それはちょっと無理かな」
 文学者の間ではポピュラーなネタかもしれないけれど、文学に縁のない人間でその意味を知るものは少ないだろう。
 英語教師をしていた夏目漱石が「I love you」を「我君ヲ愛ス」と訳した生徒にそんな情緒のない訳し方はいけないと指摘した逸話など。
 健二がその話を知っているのは、隣を歩く佳主馬からつい最近聞いたからだ。
「俺は健二さんと一緒にいると、月が出てなくても言いたくなるよ」
 アパートに到着して、健二が鍵を開くのを眺めながら佳主馬が囁く。
 その言葉に顔を紅く染めて、健二は恋人を自分の部屋へを招きいれながら、それならと返す。
「僕は、君が【月が綺麗だね】って言うたびに、こう返そうかな」
 バタン、と閉じたドアと佳主馬が勝手知ったるとばかりに点けた玄関傍の電気を確認して。
「もう、死んでも良い」
 甘く、甘く囁き返して。
 焦がれていた恋人の首に腕を回し抱きつくと、当然のように腰に腕を回される。
 久しぶりに感じる佳主馬の体温と声に、まだ玄関先だということすらどうでもいいことになってしまった健二は口付けを求めて眼を閉じた。

夏目漱石の逸話を知ったのはつい最近なんですが、どのくらい有名なんでしょう。
それと同じくらいに二葉亭四迷が「I love you」と愛を囁かれ「I love you」と答えた女性の言葉を「私、死んでもいいわ」と訳したという話を聞きました。
日本語はとても素敵だと思います。
死にそうなくらい佳主馬を好きな健二というのが、凄い好き。
あ、でも佳主馬の片思いとかも凄いご馳走です。